五島列島に暮らす、隠れキリシタンとカトリックの違い
こんにちは、モデル・定住旅行家のERIKOです。
私が滞在している、中通島の上五島には、主に仏教徒、カトリック、隠れキリシタンの方々が暮らしています。
その昔、禁教令が解かれた後も、キリシタンが仏教徒に迫害を受けていた時期もあり、対立していた時期もあったようですが、現在は表面的ないがみ合いはなく、それぞれが違うしきたりや価値観を受け入れながら共存しています。
それでは、隠れキリシタンとカトリックの人びととでは、歴史的に何をきっかけに分かれ、何が違うのかを見て行きましょう。
島の4分の1がキリシタン
中通島には五島列島中で一番多くのカトリック信者が暮らしています。それは人口の25%で、4人に1人がカトリックに当たる計算になります。日本全体で考えると、全人口に対する割合は0.3%もあります。この数字からどれほど多い割合を占めているか想像できるかと思います。
日本のキリシタンの歴史
もともと日本にキリスト教が伝わったのは1549年(天文18年)、今から約450年前のことです。昔、学校で習った記憶が蘇りますね。笑 フランシスコ・ザビエルが鹿児島に上陸し、薩摩藩の許可を得て布教を開始しました。ザビエルは長崎では平戸に滞在し、その後京都へ。当時戦国時代だった日本で指揮をとっていた織田信長は、キリスト教に寛容で、宣教師が来日と共に急速に信仰が広まりました。
しかし、1587年(天正15年)には豊臣秀吉が「バテレン追放令」を出し、続く徳川幕府は「禁教令」を出しキリスト教を禁止しました。キリスト教徒は残酷な迫害を受け、それは明治初頭まで続いたのです。
本人もキリシタンだった遠藤周作の「沈黙」はこの歴史がベースとなっている作品です。
五島に住み着いたキリシタンたち
19世紀頃、大村藩の外海地方では、人口が多くなり産児制限もされ、食べ物不足に陥っていました。大村藩は当時禁止されていたキリスト教の教えを守る人たちが多く暮らすことに苦慮していました。それに対して、海を挟んだ五島藩(福江藩)では、農民の数が不足しており、まだ開墾の余地があったのです。そこで双方の思惑が一致し、1797年、大村藩から五島藩へ180人の百姓貰いの相談が成立しました。そしてのちに、1000人規模の大きな移住に繋がっていく事になります。
「五島へ五島へと、皆行きたがる 五島極楽、来てみて地獄」
という歌があります。
実際に彼らが海を渡ってみると、神道や仏教を信仰する先住者たちが住んでおり、平坦で良い土地にはすでに彼らの集落がありました。移住して来たキリシタンたちは、人が住まない急な山肌、辺鄙な入江に住まなければならない状況が待っていたのです。
家の位置でわかる宗教の違い
想像しがたいほど急峻な山間に建てられたカトリック信者の家
中通島を海から眺めると、海辺に密集している集落と山あいにぽつんぽつんと立つ家々が見えます。こんな急峻な場所にどうやって開拓したのだろうと目を疑いたくなるような場所に家や教会が建っているのです。外海からやってきたキリシタンたちは、こういった辺鄙な場所を開墾して暮らしを整えていったのです。
中通島では、集住形態を見ただけで、宗教の違いがわかってしまうという、非常に特殊な場所だと言えると思います。
「地下」(じげ)と呼ばれる、平らで海辺の集落に住んでいるのは、既住の仏教徒、「居付」(いつき)と呼ばれる散村形態の山あいの集落に住んでいるのが、カトリックの人びとということになります。そして、山には集落ごとに教会が建っており、海辺とはまた違った景観が広がっています。
カトリックと隠れキリシタンは異なる信仰を持つ
私は五島に行くまで、五島に住んでいるのは皆、隠れキリシタンだと思っていました。ところが、実際島に多く暮らしているのは、カトリック信者たちで、隠れキリシタンはかなりの少数派だということがわかったのです。
現在カトリック信者である人と、隠れキリシタンである人たちに違いができたのは、1865年幕末の動乱最中に起こったある出来事に遡ります。
長崎の外国人居留区に大浦天主堂が建てられた時、フランスからやってきたプティジャン神父の前に、浦上村の杉本ゆりという女性が「我らの胸、あなたの胸と同じ」と告白しました。彼女は殺されてもいいからという思いで、司祭に名乗り出て、正式にカトリック教徒となったのです。その後、各地のキリシタンたちが後に続いてカトリックへ改宗しましたが、このとき名乗り出ず、先祖代々伝わってきた信仰を続けることを選んだ人たちがいました。それが、隠れキリシタンたちです。彼らは禁教令が解かれた後も、先祖が行なってきた昔ながらのやり方で信仰を繋いでいます。
隠れキリシタンとは
隠れキリシタンたちは教会を持たず、表向きは仏教を装いながら密かに信仰を伝承する人のことを指します。学術的には、江戸時代までのキリシタンを「潜伏キリシタン」と呼び、明治以降も潜伏時代の信仰をそのまま続けている人を「隠れキリシタン」と呼んでいるようです。
こちらは、桐教会の裏手にある、”山神神社”です。この集落は隠れキリシタンが多く住んでおり、この神社に奉納金を納めている人たちもほとんどが隠れキリシタンたちです。
私が現地で聞いり、見たりしたカトリックと隠れキリシタンの違いをまとめてみます。
お祈り
カトリック→すべて日本語に訳された聖書を読む
隠れキリシタン→「オラショ」と呼ばれる(ポルトガル語で祈りの意味のOraçao)祈りを唱えます。(上写真)
葬儀
カトリック→教会でミサをあげる
隠れキリシタン→仏教のやり方でお坊さんがお経を読む。それと同じ時間に別の場所でミサを行い、死者を送る
クリスマス
カトリック→教会で祝う、パン、ワイン、ケーキを食べる
隠れキリシタン→民家でオラショを唱える パンの代わりに刺身、ワインの代わりに日本酒、ケーキの代わりに赤飯を炊く 家の前には常に見張りの人が立っている
現地では、カトリック信者と隠れキリシタン同士で交流はほとんどなく、誰が隠れキリシタンを信仰しているかもほとんど知られていないのが現状です。しかし、中にはお年寄りなどで、本人が亡くなる前に隠れキリシタンからカトリックに改宗される人も多いのだそうです。
隠れキリシタンの歴史についてもっと知りたい方は、生月島で「島の館」という博物館を運営しながら、長く隠れキリシタンについて研究されている、中園成生先生の本がオススメです。