ザポリージャの家族に会うまで
こんにちは、定住旅行家のERIKOです。2023年9月現在、ウクライナのザポリージャ州に来ています。ウクライナでは2014年に勃発した東部ドネツク州とハンシク州のドンバス戦争を機にロシアの軍事侵攻が本格化、戦争が長期化しています。日本では胸が痛くなるような映像や情報が日々流れていますが、戦時下でも人の暮らしはあります。
今回ウクライナへ渡航することになった経緯は、ウクライナの支援活動を行なっている、ウクライナ支援ネットワーク「桜と向日葵」の事務局の方がきっかけでした。2014年のドンバス戦争以来、支援を続けている団体です。定期的に物支援を届けられている中、今回9月に訪問されるタイミングで、一緒に同行させて頂くことになりました。リスクは伴うのは承知でしたが、戦時下での現地の生活や人びとの声に耳を傾けることの意味を感じたことが渡航を決めるきっかけとなりました。
最初の定住地ザポリージャまで向かい、支援活動などに参加させて頂きながら、現地の家庭に滞在をします。
欧州の穀物倉庫と呼ばれるウクライナ
ウクライナの面積は日本の1.6倍。国土の半分は平原で、肥料なしでも作物が育つと言われる「チェルノーゼム」と呼ばれる黒い土に被われています。小麦やひまわりなどが豊富に獲れるため、「欧州の穀倉地帯」と呼ばれてきました。ちなみにウクライナは小麦の輸出は世界第5位、ひまわりは世界最大の生産国です。
ポーランドからウクライナまでの車窓からの景色も、青い空に黄色の農地が永遠と続き、まさにウクライナの国旗の色そのものの牧歌的な風景でした。
目的地まで日本から50時間
ロシア軍の侵攻以来、ウクライナでは国内の空港は全て閉鎖され、旅客機は運航できない状況が続いています。そのためウクライナへのアクセスは陸路のみ。東京からポーランド航空(LOT)を利用してワルシャワへ飛び、ポーランドに入国。そこからバスで首都のキーウまでおよそ17時間かけてバスで入国しました。(鉄道もありますが、発売後10分で売り切れてしまうので入手困難でした)
ウクライナとポーランドの国境では、物資を運ぶトラックの列がずらり。聞けば、国境を抜けるのにおよそ2日も待たなければいけないとのことでした。トラックの運転手のほとんどは男性。戒厳令が発令されていることもあり、色々なチェックに時間を要するとのことでした。
キーウ中央駅から、“タラス・シェフチェンコ”というウクライナを代表する詩人の名前の電車に乗ってザポリージャまで向かいました。駅構内は美術館のように美しかったですが、セキュリティーチェックや多くの軍人さんたちが行き交い、どこか重々しい空気がありました。パンパンに詰め込んだ荷物を背負ってしっかりとした足取りで戦地へ向かう人、おぼつかない足を引きずりながら想像を超える疲労を抱えて戦地から戻ってくる人、別れを惜しむカップル、家族・・・出発と別れが交差する駅には数えきれないほどのドラマがあります。
韓国製のヒュンダイ・ロテムの電車は、座席が広く、日本の新幹線のように非常に快適でした。私たちが向かうザポリージャは前線がある州ということもあり、一等車両には軍人さんたちもたくさん乗っていました。網棚には大きな武器やリュックが積まれています。
戦地へ向かうまでリラックスしてもらうため、軍人さんたちは一等車両に優先的に乗車できるのだそうです。
南部の農業・産業都市 ザポーリジャ
キーウを出発して7時間後、日本を出発して50時間後、ウクライナの南東部ザポリージャに到着しました。現在、最前線に最も近い場所の一つであるこの州です。中央駅を降りると、目に飛びんで来たのは、大きな武器を抱えて歩く兵士たち、黒いナンバープレートを付けた軍用車と、戦争が間近で行われていることがひしひしと感じられるような雰囲気に、初めて戦地へいるのだという実感、不安と複雑な気持ちが込み上げてきました。
戦争が始まってドニプロ川を通行する船はなくなり、代わりに防衛のための装置が浮いている
ザポリージャはウクライナ最大の川、ドニプロ川をたたえ、中洲にあるホルティツァ島はコサックの発祥地と言われています。コサックはテュルク系の言語で「群れを離れたもの」から「自由な戦死」を意味します。国歌で「身も心も祖国の自由のために捧げよう 我らコサックの末裔」と謳われていますが、彼らはコサックの末裔であることの誇りを持っています。ゼレンスキー大統領も演説で国民の士気を高めるとき、コサックの一族ということを引用しています。
ホルティツァ島には、コサック文化を紹介する施設や催しがあったそうですが、戦争が始まってからの、文化活動は中断されているようです。
今年の6月にザポリージャから350km南に行った場所にあるカホフカ水力発電所のダムがロシア軍に攻撃されました。爆撃直後は周囲で洪水が起こり、現在はドニプロ川の水位が日に日に下がってきているようです。カホフカ貯水池の水が不足していているため、周囲の農地は運河から引いていた水がなくなり、深刻な水不足が始まっているようです。
工業地帯でもあるザポリージャは、世界最大の輸送機アントーノフ・An225ムリーヤ(ムーリアはウクライナ語で「夢」の意味)の工場があります。1980年代のソ連時代、ムーリアは、宇宙船の運搬用に開発された、世界に1機しかなかった機体です。全長84m、300トン以上の荷物を運ぶことが可能な特大ジェット機です。東日本大震災の時は、フランスのチャーターでたくさんの支援物資を運んでくれました。残念ながら去年の2月にロシア軍の爆撃で破壊されてしまいました。
言語アイデンティティの変化
ロシアにほど近いザポリージャ州では、ロシア語が第一言語として使われていました。しかし戦争が始まるとともに、ロシア語を極力話さないようにする人が増えています。その中で、「スルジク」と呼ばれるロシア語とウクライナ語を混合して使う人も多くなっているようです。ちなみに、中国語とロシア語の混合言語は「キャフカ」、ノルウェー語とロシア語の混合言語は「ルセノルスク」と呼ばれているそうです。また最近では、ハングルと日本語が混ざった「ホンボノ」という言葉が韓国の若者の間でよく使われているとも聞きました。
出発前、挨拶やお礼など簡単なウクライナ語を覚えていったのですが、滞在先の家族や接した現地の人たちは、主にロシア語を使用しており、結局滞在中はロシア語でコミュニケーションをとっていました。
街の看板などもまだまだロシア語が主流ですが、何十年か後には、ウクライナ語しか通じない場所となる日も来るかもしれません。
戦争でダッチャに暮らしを移した夫婦
ザポリージャで滞在しているのは、リーナさんとバディムさん夫婦の家。彼らは2年前のロシア侵攻が激化する前まで、市内のマンションに暮らしていました。2022年2月24日に戦争が始まり、その3日後、郊外のダッチャに避難してきました。ダッチャは第二次大戦中後の食糧不足対策として政府が市民に与えた土地。現代では週末や夏休みに畑作業などをして過ごす場所として活用されています。国民はこの時代に戦争が起こってダチャに暮らすなどと思ってもみなかったと言います。
今回の戦争では、国外に避難する人、移住を余儀なくされる人、もしろ海外に住んでいたのに戦争をきっかけに祖国に戻ってくる人がいることを知りました。戦争や祖国に対する考えには個人差が大きくあるようです。リーナさんとバディムさんは、戦争が始まってからも現在も、どこかへ避難したり、移住することは全く考えたことはない、と。理由は単純で、私の家は世界中でここにしかないからと話していました。
10種類以上の野菜と果物が収穫できるダチャは、新鮮なマーケットのようです。街へ買い物に行かなくても庭へ出れば用が足りてしまいます。また採れたての野菜は本当に味が濃くて美味しいのです!私が特に感動したのはきゅうり。日本のものより太くて短く、水分が多くて甘いのです。
農場主のバディムさん
バディムさんは、ユダヤ系のウクライナ人。父親から継いだ農場を経営されています。ウクライナには歴史的に多くのユダヤ人が暮らして、彼はその末裔です。最初の奥さんとの間に息子が一人いて、彼は現在イスラエルの大学に通っています。ウクライナでは2022年2月24日付けで戒厳令が引かれ、18~60歳の男性は特別な許可がない限り国外に出ることが禁止されています。そのため、息子さんに会いに行くことも、息子が訪ねて来ることもできない状態だそうです。戦争が始まってから、移住や徴兵などで人手が減り、今では1月1日以外、朝6時から夜9時まで休みなく働いています。
弟さんを前線で亡くしたリーナさん
リーナさんはバディムさんより彼よりも8歳年上で、38歳のときに再婚されました。前夫との間に娘さんが一人いて、市内に暮らしているようです。バディムさんとの間には子どもを授からなかったそうで、スティッチという愛犬を彼らは子どものように溺愛しています。
スティッチはウクライナでは知らない人はいない、パトロンという爆発物探知犬にそっくりな犬。パトロンはこれまでに200個以上の地雷発見に貢献したとして、ゼレンスキー大統領から表彰を受けていました。スティッチもパトロンに負けず、とても利口な犬で、りーナさんが話すことを全て理解しているかのようでした。
リーナさんは去年の2月まで服屋で勤務されていました。今はダチャで菜園をし、夏の間はとれた野菜で保存食を作るなど、冬に向けての準備をしています。
「戦争が始まってから、本当の主婦になったわ」
働いている頃は、毎日スーパーであり合わせのものを買って食卓に並べていたそうで、人生でこんなに丁寧に料理や家事をしたのは初めてだと話していました。彼女の弟さんは、去年、前線に就き、帰らぬ人となってしまいました。墓地はどこにあるかと尋ねると、ほとんどの兵士の遺体は戻ってこないため、お墓も作ることができないと話していました。
彼女は戦時下を生きていると思えないほど明るく、前向きですが、後にそれは士気が下がるのを避けているためだと分かりました。そこには暗黙の了解で、悲しんだり、弱音を吐いたりしていけないという空気感がありました。
激戦地から70kmの暮らし
ザポリージャは現在、前線で戦いが行われている州の一つで、彼らのダチャは激戦地からおよそ70kmの場所にあります。東京に例えると、都心から小田原くらいの距離です。私が滞在中も空襲警報は1日に10回以上鳴り、迎撃できなかったミサイルが街に落ちたりしていました。
これは空襲警報アプリ。イーロンマスクのスターリンクの技術を使ったものでかなり正確な情報を入手することができます。
日常化した戦争
去年の攻撃で爆撃されたザポリージャの村のレジンスキー学校
空襲警報は夜明け頃から早朝に鳴ることが多く、いつどこに落ちるか分からないミサイルに怯えながらの生活でした。滞在が始まった頃は、常に警報などが気になったり、夜中に警報がなる度に起きていました。しかし、1週間が経った頃、精神的、肉体的疲れがピークとなり、自分の生活が警報などに振り回されないようするため、警報アプリの通知をOFFにする選択をしている自分がいました。
家族や地元の人たちも同じく、警報はおろか、ミサイルが街に落ちても、ほとんど話題にすらならないほど、この戦争という状態が日常化されています。人間は1年以上も緊張状態を続けて生活するのは不可能です。ミサイルが落ちるのはくじ引きのようなもので、毎日、毎時間、毎瞬心配していては生活もままなりません。諦めるというより、折り合いをつける力を身につけているのだと思いました。
◎『美しきウクライナ 愛しき人々・うるわしの文化・大いなる自然 』
自らをウクライナーと呼び、国内を旅してウクライナの魅力を配信する活動家たちの書籍