戦時下の首都キーウ
こんにちは、定住旅行家のERIKOです。ウクライナでの滞在も終盤に差し掛かり、最後の定住地である首都のキーウへ移動してきました。キーウでは同年代のエカテリーナさんのお宅でお世話になりました。
戦時下の都会
世界遺産「ソフィア大聖堂」
キーウに到着したのは9月の下旬。樺太北部と同じくらいの緯度に位置する街なので、寒さを覚悟していたのですが、まだまだ残暑といった感じでジャケットは不要でした。毎日天気もよく、街を歩いていると戦時下であることをすっかり忘れてしまうことも。
キーウ市内の移動は、地下鉄やタクシー(Bolt)を活用していました。キーウは東京よりも200km²面積が大きい街。最寄りの地下鉄まで30分歩くことなどもざらで、タクシーを利用することも多かったです。そこで困ったことの一つが、通りの名前や地名でした。
地名が塗りつぶされた道看板
戦争が始まってからウクライナ全土で、ロシア語やコムニズム(共産主義)を連想させる町や通りの名称がウクライナ語にかなりの割合で変更されていて、現地のタクシー運転手も全てを把握しきれておらず、旧名を伝えなければ行き先がわからないということがよくありました。
また、道路の道案内版などは敵国が攻めてきたときに位置情報をわからなくするためにスプレーで消されているものも多く、それらを目にする度に、「自分は戦争している国にいるんだ」という緊張が走りました。
ステンドクラス会社を経営するエカテリーナさん
ごく稀に、たくさんのことを話さなくても気が合うという感覚に襲われる人に出会うことがありますが、エカテリーナさんは私にとってまさにそんな人でした。生まれも育ちも、日本にゆかりもなく、考え方も違う彼女ですが、なんだか波長が合って安心できる。彼女と特別なことをしなくても、一緒にいるだけで嬉しい気持ちになるという気持ちを感じました。
エカテリーナさんのマンション敷地内にあるスポーツ施設
キーウの郊外のマンションで一人暮らしをするエカテリーナさん。キーウの中級階級以上の人たちが暮らすマンションは共通して、入り口にセキュリティが設けられており、敷地内には公園、スーパーマーケット、カフェ、レストラン、スポーツジム、テニスコートなどがあり、外へ出なくても生活が完結してしまうようなつくりになっているようです。
エカテリーナさんはロシアと国境を接するスウミという町の出身。第一言語はロシア語を話します。私ともロシア語と英語を交えて話していましたが、今は友だちと話すときは、スルジックやウクライナ語を話すように心がけているようでした。
大学で政治、経済を学んだ彼女は、2004年に幼馴染だったアーティストのアンドレイさんと組んでステンドグラスを製作、販売する会社Vintage Art Souvenirs を立ち上げました。店舗は持たず、オンラインのみの販売ですが、世界中から発注を受けています。
一つずつ手作業する従業員たち
コロナ禍が収束する直前に始まったロシア侵攻。攻撃の激しかった2022年2月には、会社を運営することもままならず、スタッフも働ける状況ではなかったそうです。状況が回復し、再び働き始めてからはより強いチームになったと話していました。
戦争が始まってからの人生の変化
キーウ市内 兵士を募集する看板
キーウに来て驚いたのは、夜中にけたたましく鳴る空襲警報でした。キーウに着いて最初の2日間は、街の中心部の知り合いのアパートに一人で滞在していたのですが、毎晩のように早朝4時、5時に鳴り響く警報でなかなか落ち着いて眠れませんでした。
エカテリーナさんのご自宅
エカテリーナさんの住まいは、キーウの郊外ということもあり、街の警報は届きません。そのため彼女の家に滞在中はぐっすりと眠ることができました。
エカテリーナさんは戦争初心者の私に、ロシア侵攻が始まったときのことを話してくれました。
「そもそも自分の国で戦争が起こるなんて、私も含めて誰も想像もしていなかったことです。でもそういうことが現実に起ったんです。侵攻が始まった2月は毎日攻撃が激しく、全てが初めてのことで、自分の身をどうすればいいのかわかりませんでした。とにかく一人でいるのは危険だと思い、数日後にキーウ中心に暮らす友人の家に移動しました。そのとき、4人でくっついて寝たのですが、暫くぶりに安心して寝られました。人が与える安心感の大きさは偉大です。
戦争がはじまって10日後、私はドイツに避難民として行くことになりました。東部のケミニッツという小さな町です。政府が用意してくれた部屋は一人には贅沢なほど広く、手厚い保護を受けました。しかし、攻撃も受けなく安全で、生活には困らなくとも、辛い日々でした。同じウクライナから避難した女性たちの中には、家や家族を失った人もいて、彼らの話を聞くのも心が痛かったです。
違う土地での生活で感じる不便さもありました。ウクライナでは行政手続きは全てオンラインで素早くできます。パスポートすらデジタル化しているほどです。なのにドイツでは今だに役所で長い列に並んで書類を提出しなければならず、それが何日もかかったりしてとても大変でした。
6ヶ月後に私はウクライナへ帰国することを決めました。自分の家に戻って、ベッドに横になったとき、自分の国、居場所はここなんだという思いが込み上げてきました。自分の部屋のクローゼットの中の洋服、身の回りの物、それらを見て、自分の生活に戻れたことが本当に嬉しかったです。またドイツへ行っている間、大家さんは家賃を請求してくることはありませんでした」
戦時下でのSNSの価値観
ある日、エカテリーナさんの友人の家に招かれたことがありました。キーウの中心外から少し外れたビラに暮らす彼女の家は、まるでハリウッドセレブのようなプール、庭付きの素晴らしいお家でした。そこでBBQやバーニャ(ロシア式サウナ)を楽しんで一晩を過ごしました。豪華な食事にお酒と、まるで戦争中の国にいることを忘れてしまいそうな雰囲気でしたが、彼女たちの話の話題はもっぱら戦争。
一緒に来ていたエカテリーナの友人は、「次の給料が入ったら彼氏に最新の武器をプレゼントしたい」と話しているのを聞いて、平和よりも勝利を望む国民意識を目の当たりにした気がしました。
ウクライナでもInstagramやTelegram等は誰にでも親しみあるSNSです。彼女たちも日々の出来事を発信して友だちと交流をしているのは日本人の女性たちと変わりありません。
ただの現在の国の状況から、SNSで配信する内容や価値観については、人それぞれ価値観が違うようです。エカテリーナさんは、戦争中でも友人たちと楽しい時間を過ごすことをシェアーし、私たちが普通に楽しく生活していることが、ウクライナは戦争に屈してないことの表現の一つになるという解釈を持っています。エカテリーナさんの友人、アーリャさんは、私が前線で戦っている兵士なら、人が楽しんでいる様子は見たくないから、SNSは自粛していると話していました。この話を聞きながら、コロナのときも同じようなことがあったことを思い出しました。そして自分がこの国に住んでいたらどうするだろうと考えました。
戦争が始まって変わったお金と時間の使いかた
「戦争が始まって変わったことはありますか?」と質問すると、これが当たり前になってしまって、何が変わったしまったか戦争前を思い出せないとエカテリーナさん。しかし数日間一緒にいる間にそのいくつかを思い出した時に教えてくれました。
キーウのスーパーも食料品は豊富にある
まずはお金の使い方。以前まではスーパーなどへ行った時、同じものならなるべく価格が安い方を選んでいたそうですが、今は少し高くても欲しいものを躊躇せず買うようになったそう。もう一つが時間の使い方。少しでも空いた時間があると、電話などよりも直接家族や友だちと会う時間に使うようになったそうです。
エカテリーナさんの家を出る日の朝、ぐっすり眠れた私に対しエカテリーナさんはベッドに埋もれて「ミサイルの音聞こえた?」と眠そうにしていました。どうやら早朝4時ごろから迎撃ロケットの音がずっと聞こえていたようで寝れなったのだと。長期化する戦争で、国民のほとんどが飛行する物体がどんな種類のミサイルなのかも聞き分けられるようになっているようでした。
キーウをウクライナを去るとき、国に残って戦いを続ける国民と自由に出入りする日本人の私という立場にどこか後ろめたさを感じている自分がいました。戦争が終わったら、またウクライナへ来てねと言ってくれる彼女たち。どうか、無事でいて欲しいです。